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Kota Nakagawa,

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​音楽は、人間のもの

  • 執筆者の写真: 中川 康大
    中川 康大
  • 2014年1月14日
  • 読了時間: 2分

マルセル・モイーズ。フルートを嗜む者にとって、一度は聞いたことがある名前だろう。「フルートの神様」として。「神様」というレッテルは時として理解することへの熱望を無関心へと逆転させる。モイーズについてはそれが顕著であり、一握りの者を除いて彼が実際に音楽家として何をなしたのか知らない。彼が書いた教則本に関してはみな言及するのに、肝心要の彼の音楽に対してはみな眼を向けない。彼らの頭の中には当たり前の因果関係がなぜか存在しないらしい。

モイーズの音楽性が、その神格化にもかかわらず全くといっていいほど受け継がれていないのである。ぜひ一度、彼の演奏を聴いてみてほしい。Youtube上でいくらでも彼の録音を見つけることができる。当たり前の感覚を持っている方であれば、彼の演奏が現在世界の主流となっている演奏と全く別世界であると感じるだろう。それが好きか嫌いかは別として。

ただ、私は断言させてもらう。モイーズの描いた音楽のほうが、今よりもずっとずっと美しい。その響きに、美しい自然、人々の美しい営みが見える。現代の世界最高といわれるフルーティストの演奏を聴いたところで私には何も見えない。上手いか上手くないかばかり気になる。これは、世の中において音楽の意味が変質したことを意味する。以前、哲学者ウィトゲンシュタインの家族の物語を読んだことがあるが、大戦の予感にゆれる当時の情勢において、家族で音楽を奏でる時間が唯一の安息の時だったのだそうだ。人間の人生のために音楽があった。そういう価値観の中で、音楽が演奏されていた。よく「クラシック音楽は死んだ」などと言うことがあるが、これは真実ではない。人間と人間によって作られる社会が、劣化しているのである。

逆の観点で言えば、スコアに記されている音符たちは何も変わっていない。これは当たり前のことながら、私たちを安心させてくれるだろう。フルートの世界において、劣化(少なくとも変化)が他の楽器に比べて明確に起こった理由についてはもっと研究されなければならない。ただ、どちらにせよ人間の人生のための音楽を考えるときに、フルートは特に、あるべき姿から遠のいているのではないかと感じるのだ。ただじっくりと、一番大切なことを考えることの難しさ。そして、フルートの音響的欠点を乗り越えた越えた先にあるひとつの結果として、マルセル・モイーズの成し遂げたことは再確認されて然るべき価値があると思う。


 
 
 

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