井上陽水の歌声に思う
- 中川 康大
- 2016年4月12日
- 読了時間: 2分
いつだって感覚を言葉で表すヒントを探している。説明できれば、共有できれば、おもしろくなる。
ふと、妻が聴いていた井上陽水の歌声に耳が奪われた。高く、輝き、最小限の表現を最大限の表現に聴かせる響き。「そのURL送って!」と妻に頼み、聴き入り、見入った。
どう見ても口で歌っていない。頭のほうだ。口、というか顎は非常に柔軟に自由に、響きに合わせるよう動き回っている。難しいテクニックは感じられない。しかし、彼から出力されるその歌声は常に高く、輝き、効果的に聴き手に伝わる。
よく響く声の歌手の歌う姿を見てみると、この下顎の自由さはかなり共通しているように思える。順番で言うと、頭のトップに息を当てようとしたとき、下顎を開放したほうがより上を目指せるから、そうなっているというべきだろう。
ところで、最初から高く、輝き、その中の最小の変化で効果的に心に響く表現、と言ったら、それはモイーズもそうなのだ(ついでにヴァイオリンの偉大なソリストたちにも、それを感じる)。そして、モイーズの内向き、というのは目指した響きの方向性上、当然の結果だと思った。
それとは逆に、現代ドイツの最先端のオーケストラを聴いていて強く思うことがある。拡張の方向を間違えているな、ということだ。テクニック的にも完璧で、音響的にも拡張しきっている。なのになぜだ、感じる感動は音楽的感動ではない。僭越ながら申し上げれば、センスがないのだ。
心に響く、ということほど大切なことはない。というか、心に響かない音楽は必要ない。言葉にしてしまえばこれだけのことだが真実だろう。心に響く響き、というものは確かに存在すると信じている。私の言い方をすれば、それは常々書いているように、「高い響き」ということになる。「高い響き」は効果的に心に響くから、むやみやたらに拡張する必要はない。肝要なのはむしろ、その響きの均質性を獲得することだろう。
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