カザルス、身体の響き
- 中川 康大
- 2015年3月11日
- 読了時間: 3分
健康でありたいものである。ただ、そこになかなかお金はかけられない。そんな折、整体法創始者として知られる野口晴哉の存在を知った。既に故人ではあるが、彼の、そして彼の整体法を継いだ多くの整体師たちの著書を文庫版で手に入れることができる。それを読みながら自己の調整に努め、ここ最近は身体が活力を取り戻し、自分でも驚くほど気合が入るようになった。
その野口が敬愛していたのが、もはや伝説的といってもいいチェリスト、パブロ・カザルスだったという。身体の専門家である野口が愛した音楽、というのはなんだか面白い気がして、久しぶりにカザルスのバッハを聴いた。結果、今までになかったくらい、カザルスのチェロが私の心に響いてきたのだった。
彼の身体の中にある音楽(活力)が楽器を通じてダイレクトに鳴っている。そういう印象を受けた。現代の楽器演奏ではなかなか聴くことのできない、身体の底部から湧き出してくるアタック。野口が彼の音楽にゾッコンだったという事実。さもありなん、である。
さて、それではなぜ今回、私の身体にカザルスの音楽が以前とは比べ物に鳴らない強度で響いてきたのか。それはきっと、私自身の身体が整い、呼吸が深くなってきたからであろう。音楽は演奏する側のものだけではない、聴く側の状態によっても大きく左右される。いろいろ思い浮かぶことがあるので以下に列挙してみる。
パブロ・カザルス、マルセル・モイーズをはじめとして、過去の大家に対して現代の聴衆からはしばしば「音程が悪い」という文句が付いて回る。しかし、その時代を生きた聴衆や音楽家から、彼らの音楽は神格化されるほどの支持を受けた。現代においては、わかるひと、わからないひとがいるようである。
現在のポップミュージックの世界を見てみると、驚くほど息苦しい(息の浅い)歌、音に溢れている。しかし現にそれが支持されている。
フルートの世界において、過去の楽器に見られる、身体の奥底からのアタックを受け止めるようなトレンドは過ぎ去っている。むしろ口先と身体上部に頼った呼吸の繊細なコントロールで音楽をする、という方向に移り変わってきている。
我々の少年時代から聞かれるようになった「ムカつく」という言葉は、この時代特有の身体性として、整体の観点からの説明が付くという。
これらはおそらく全て、呼吸の深さ・弾力の観点から解き明かされる種類のことであろう。身体が違えば、何にこだわって演奏する(演奏してしまう)かも、何にこだわって聴く(聴いてしまう)かも、全く違ってくる。説明の付かない不安は息を浅くする。音楽家も聴衆の側も、この時代特有の身体性の中で生きているといっていい。しかも精神と身体は相互に影響しあう関係であるため、例えテクニックを完璧にマスターしたとて、息の活力はコントロールしえない。難しい時代に生きている。
ただひとつ言えることは、豊かな息で紡がれる歌ほど美しいものはない、ということである。それは、聴くひとの心を温かくし、身体を緩ませてくれるのだ。
追記:今回、カザルスに関しての評価をインターネット上でいろいろ見ていたのだが、カザルスの「楽器の鳴り方」に着目している方々が数多くいた。カザルスを聴くときはやはりそこに心を引っ張られるのだ。「楽器が歌う」とはこういうことを言うのだ。
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