梧竹の書論から
- 中川 康大
- 2015年3月23日
- 読了時間: 2分
前回に続いて野口晴哉関連。

彼が画家中川一政と行った対談が、野口晴哉公式サイトに掲載されている。その中で明治の書家中林梧竹の書について語られており、気になって調べてみた。梧竹の書(特に晩年のもの)もまた、野口にあってはさもありなん、といった風情であった。特に「いろは帖屏風」(85歳筆)の凄みは格別で、こうある以外にありえない、と感じさせるものだった。
書に皮肉骨有り。三者具はりて、而る後に品位生ず。(中林 1931:第三則)
梧竹による書論『梧竹堂書話』からの一節である。 この中で梧竹は古きものに学ぶあまり、古碑の磨り減って骨だけになった字をありがたがって真似る風潮に警鐘を鳴らした。皮肉骨については『梧竹堂書話』の研究者内村嘉秀氏の以下の解説がわかりやすい。
「骨」は、点画の中心にあって、点画を内から引きしめ充実させているものをいい、具体的には骨力・骨勢( 「勢」は一定の方向性を もった力の展開)として現象する 。身体における骨は物質で目視できるが、書における「骨」は物質ではなく、従って目視することはできない。しかし、その現象形態である骨力・骨勢は、書の稽古をとおして養われた感性によって確実に感得されうるものである。(内村 2013:)
「肉」は「骨」を包んでいる点画の豊かさをいい、書に 秀潤・温潤さをもたらす要素と理解されている。 「皮」は点画の際(白と黒とのさかい)をいい、その肌理の細かさや粗さ、艶が問題とされる。(内村 2013:)
音楽に於ける問題は書のそれとは少し違った見え方となるが、本質は同じように思う。音楽の場合は「皮」「肉」を模倣し続けてあて先のない迷路に迷い込むという形で問題が表出する。私は芸術表現に於いて「骨」が最も重要であると確信する。「骨力・骨勢」が「皮」「肉」を作るのである。逆はない。
私の母親が書を嗜むため帰郷の折に書の展覧会を見に行くことがあるが、私が最も好きなのは小学校低学年の条幅である。迷いのない力強い書。まさに「天心」と言える。音楽に於いても不思議と趣味的音楽家の演奏に心動かされることが多い。それは、音楽を愉しむのみ、という全く無垢なテーマに立脚できているからなのだと思う。
ひとは人生の中で全く不要なものを身に着けていってしまう存在なのかもしれない。自分自身にとっても、他人にとっても利のないものを、わけもわからず、次々と・・・。梧竹は80歳を過ぎて「天心」輝く書を書いた。中国にまで渡り、長い書の歴史を研究し尽くした彼の到達点は、それを咀嚼して自らの血肉に変えた、こども心の書であった。
参考文献 内村 嘉秀 (2013) 『「梧竹堂書話」の研究』 木耳社.
中林 梧竹 (1931) 『梧竹堂書話』 晩翠軒.
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