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ミュンヘンに於けるフルートの変遷

  • 執筆者の写真: 中川 康大
    中川 康大
  • 2015年7月10日
  • 読了時間: 3分

ドイツ博物館の資料等にあたってみて、ミュンヘンに於けるフルートの変遷がクリアになったのでここに記す。こんなことも知らなかったのか、と言われる話かもしれないが。

名手ぞろいのカール・リヒターのミュンヘン・バッハ管でフルートを吹いていたヴァルター・トイラーについて、今回、調べていた。そこでたまたま、1939年にトイラーがバイエルン州立歌劇場の円錐管ベームフルートの歴史を終わらせた、という旨の記述を目にしたのだ。べームがミュンヘンの人間だったのにも関わらず、彼が発明した1847年式円筒管フルートが浸透するまで世界で最も時間がかかったという話は有名である。しかし、べーム自身、若い頃からバイエルン州立歌劇場の奏者にフルートを教えてもらい、そのお礼にいつも改良したフルートを作ってあげていたということや、彼自身がその後、王立イザール門劇場のフルート奏者を務めていたことを考えると1939年まで彼の円筒管フルートが無視されてきたとは思えなかったのだ。

その疑問を解く鍵になったのがあの有名な、1882年にワーグナーがバイロイトで自身のパルジファルを初演する際、円筒管フルートをキャノン砲と言ってやめさせた件である。この出来事について私は詳しく知らなかったのだが、この時のフルーティストこそがミュンヘン宮廷オーケストラの名手で、作曲家としても知られるルドルフ・ティルメッツだったのだ。バイロイトとミュンヘンというとかなりの距離があるので思いもつかなかったが、この時、オーケストラの4分の3がミュンヘン宮廷オーケストラの団員で編成されていた。この一件の後、当時ミュンヘンのトップフルーティストだったティルメッツは、バイエルン州立歌劇場オーケストラで円錐管を使い始めた。

重要なのは、ティルメッツ自身はべームに薫陶を受けたフルーティストだったと言う事実。彼自身はワーグナーに指摘されるまで円筒管フルートを吹いていたのだ。そして当然のことながら、当時ミュンヘンでは当たり前に円筒管フルートが演奏されていたのである。

まとめ。テオバルト・べームが当地の人間だったのにも関わらず、ミュンヘンでは彼の1847年式円筒管フルートが受け入れられるまでに一世紀近くの期間を要した、という話は半分間違いである。1882年に名手ティルメッツがワーグナーに怒られるまでは当たり前に円筒管フルートが使用されていた(どのくらいの普及度であったかは今のところ不明)。ワーグナーの一言によって、1882年から50年以上もの間ミュンヘンの一流の音楽家が円錐管フルートでの演奏に戻り、守り続けた事実は、いかにワーグナーが影響力のある作曲家であったかということを証明している。


 
 
 

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